2019年11月26日火曜日

余命

今日、ついに聞いてしまった。
「タマってどれくらい生きれるんでしたっけ?」

今年の2月の入院中にはタマの心臓も腎臓も機能が落ちていて、
どっちかをとればどっちかが悪くなるみたいな悪循環に陥っていて
主治医にも「ちょっと先のこと話してみましょうか。」
って言われて、話をする時間をとってもらった。
そのときに、たしか「10年は持たないでしょう。5年いくかいかないか・・・」
みたいな話を聞いた気がする。ほんと?
ぼんやりと「私より先に死ぬのかもしれない」と思っていた今までとは比べ物にならないくらい「死」の輪郭がはっきりとした形を帯びた。結構すぐじゃないですか?
知りたかったけど聞きたくなかった。わかってた気もするけど考えたくなかった。
10ヶ月たった今、なぜかその記憶が曖昧で思い出せなくて、今日の外来受診のときにまた聞いてしまったのだ。先生は「また時間とって話しましょう」って言ってくれた。

2月からこっちタマは成人しないのか、その可能性が高いのか。十三祝いがまず目標だな。手話でのコミュニケーションもままならないままだな。学校の付添も最近できてないな。っていうか体調悪くて学校すら通えてないな。どうやったらもっと家族の時間が取れる?仕事辞めたい。(自分がやめたいだけでは?w)とかなんとか考えて通勤中ダダ泣きでカブにまたがる。風をうけて、緊張感をとりもどして、職場につく頃にはうまいこと涙が乾く。

と、いうのは私の話。そう、40を過ぎた私の話。

タマはまあ元気に過ごしている。今日の血液検査の結果も良かった。レントゲンだってばっちり。

いったいぜんたい子供の余命を聞かされた親はどんなふうに過ごしてるのか。
っていろんな病気があり、子がおり、親がいる。そんなん各々なんでしょか。なんでしょね。
なんか薄ぼんやりした辛さを職場の人に話してみたり、私の想像(妄想?)にオットさんを付き合わせたり。下の子達になにか伝えるべきなのか悩んだり。なにより本人に話すべきなの?え?なにを?タマはたぶんいつだって全力投球で生きてますけど。
で、結局いつもどおり生活に追われながらタマを叱ったり褒めたり笑かしたり抱きしめたりする日々。タマはジャイアンでマイペースで素直で強くて優しい獅子座のA型。回転寿司が大好きよ。
みんな死ぬまで生きる。あなたも私も生きる。さあさあ!



2016年11月3日木曜日

自由

わたし、料理が好きだった。
お出汁もちゃんと取って、だしの素なんか絶対使わない。
冷凍食品だって買わない。素材からの手作りが大好き。

わたし、好きなものとだけ暮らしたかった。
遠くに買いに行く手間だって惜しまないし、自分で手をいれたりもする。
お気に入りが見つかるまで我慢する。余分なものはいらない。

わたし、自分の時間が好きだった。
思いつきで友達を呼び出してご飯を食べに行ったり
泳ぎたいと思ったらジムに登録したり
長い休みがあれば海外へ行くチケットをとった。

そんな自分が好きだった。自由で。



いまは、くたびれて料理なんかしたくないとき
オットさんが作ってくれたり
冷凍食品を使って、だしの素を使って、ごはんを作る。
そして、家族そろっておいしいねって食卓を囲む。

私の好きなものと、オットさんの好きなものと、
タマの好きなものと、ウタの好きなものと、
カヤの好きなものと、ナオの好きなもの、
ぜーんぶ違う。だからそれぞれの好きなもの全部と一緒に暮らしている。

いまは、自分だけの時間をつくる。
友人と過ごしたり、好きな本を読んだりテレビを見たり。
だけど家族と過ごすのも大切な自分の時間。

今の私は、前の私から解放されていてとても自由。
そして、前よりも世界が愛おしいです。



2015年10月18日日曜日

死ぬこと

死ぬことについて考えるのが好きだ。

きっとはじめは小学生の時。
ひどく叱られたり、喧嘩をした後に
「私が死んだらパパやママはどう思うかな。」
って考えたりした。
そして、きっと悲しむに違いないという思いと
そうでもないかもしれないという想像と
いなくなってしまう自分の哀れさに
布団の中で泣いたりしてた。

小さな生き物を飼いたがっては
たくさん死なせていた。
実家の庭にはたくさんお墓がある。
今は花や樹や草に埋もれて、それとはわからないけど。

タマが生まれて数日後、入院中の私に
以前お産をとらせてもらったお母さんからメールがあった。
「息子が亡くなりました。」と。
生まれてから予後の良くない病気だとわかって
小児科で入退院を繰り返していた子。
ときどきお見舞いに行かせてもらって
近い将来いつかは来ると思っていた日。
それはタマの誕生日だった。
知らせてくれて本当に嬉しかった。
そして、なぜなんだろう
子どもが死ぬのはなぜなんだろうと思う。

大学生の時、友人が
浪人中に同い年の中の良かった従兄弟が
亡くなったことを受験が終わってから
両親から知らされた。と話していた。
彼はそれで良かったと。
遠くにいるだけ、と思っている方がずいぶんいい
受験中に知らされたら悲しみに耐えられないと。

私は祖父のお葬式に出なかった。
たぶん出られないから、
生きている間に会いたいと思って
これが最後かなと思いながら
祖父のベッドの横に布団を敷いて
少ない言葉を交わして一晩一緒に過ごした。
生と死ははっきり分かれていなくて
グレーなんだなと思った。
亡くなった時は、お葬式の様子を兄弟たちが
写真やメールで教えてくれて
夜にお産の待機をしていた私は
それを見て、たくさん笑ってそして泣いた。
これで、すっきりしたと思った。
だけど祖父が亡くなって4ヶ月後に
祖父の家に初めて入った時
家主のいないその静けさに
また涙があふれた。
その時、
おじいちゃんが死んだことを
頭ではわかっていても
心では知らなかったんだったと
そう思った。

今は私が死んだら生きていけないよ、とか
冗談でも言ってくれるオットさんに
「大丈夫、絶対死なないわ。またしあわせに生きてね。」
って言う。そして
「オットさんが死んでも、私しあわせに生きていくね。」
って彼に言う。
しあわせに生きてるから、笑ってそう言う。

「死ぬ」っていうことが
もっと身近に、具体的に目の前にぽんと置かれたら。
それはもうほんとにどうしようもなく想像のできないことです。

でもそれはいつも結構ちかくにいて
考えずにはいられない。




2015年8月6日木曜日

あまのじゃく

こどもを預けるのが面倒だったりして
あまり、出かけないのだけれど
時々は思い立って、タイミングが合えば
「難聴児を育てる」とかいうような
講演会を聞きに出向いたりする。
そして、大抵、行かなくても良かったかなとか
そういう物足りなさを感じて帰ってくる。
オットさんに「どうだった?」と尋ねられて
説明するも、出てくるのは大抵ぐち、、、、、
こういうの、本当どうにかならないかな。
私だいぶ、世の中斜めにみてるんやろうな。
性格悪いな。
なにがあかんのかな。
きっと、拒絶する何かが自分の中にあるんやろうな。
そんな風に思ってた。

で、ある時、また懲りずに講演会へのこのこと出て行ったのです。
それはろう学校教師を長く務めている方のお話でした。
自己紹介があって
これまで長らく勤めてこられた支援学校やろう学校で
出会った沢山のこどもたちや親御さんのことを話されていた。
支援学校に通わせる親御さんたちには
こんなに沢山の苦労があるんです、こんな幸福もあるんです
お察しします。
そんなエピソードや言葉がつぎつぎ語られて
私はまた「ああ、今日も何も得られない」
こんな上辺だけの(と私が感じているだけですが)ご苦労お察しします。
なんて言葉聞きたくもない。
そんなことはどうでもいいの。
私は心に響く何かを聞きたくてここに来ているのに!
と、心のなかで叫んだ瞬間、
「ですが、長らく関わっていても私は一教師です。
実のところ当事者の苦労のなんたるかも、わかりません。」
そんな言葉が放たれて、
私は胸がすーっとしました。
この言葉を聞いただけでここに来たかいがあった。
そう思いました。

私は物知り顔の先生たちに従って
はいはいとたくさんの事をタマのために頑張ってきてるけど
その不安や不満を、胸の内を打ち明けたことは一度だってない。
先生から聞かれることもない。
きっと興味だってない。
分かってもらえるとも思わない。
そんな風に
なんだか勝手に孤独に頑張っていました。
分かった風な顔をして寄り添われるのが本当に嫌だった。
でも、わからないなりに寄り添いたいんです
できることをしたいんです。
と、言われた途端
「ああ、これからは、たとえわからなくても
私こそ支えてくれる人たちに、もっと伝える努力をしなくちゃな。」
そう思えた。
わたしだって実のところ、誰の苦しみも幸福もわからない。
そうなんだった!

わたしって、ただのあまのじゃく。
いつも素直じゃないから遠回りする。

なんでも素直に受け止められる心を持っていたい。
思ったことを素直に伝えられる人になりたい。
いつも感動してきらきらしていたい。
そう思うけど、しかたない。
わたしはあまのじゃくだから。






2015年6月17日水曜日

うまくいえないけど、こんなこともある。

タマを育てていると
こう見えても普通に楽しく生きているんですよ
何ら他の健康な子と変わりありません。
と言いたい気持ちと
やはり、こういう病気を持つ子は大変です
あんなことこんなこと普通に生活するのに問題が山積みです。
と言いたい気持ちの2つが交互にやってくる。

反対の気持ちの時に反対の文章を読み返すと
「強がりばかり書いている」とか
「お涙頂戴の同情ばかり誘って」とか
自分で思う。

まだ、ウタもカヤも生まれる前
一歳になる前のタマを連れて子育て支援センターに
行ったことがあった。
たぶん、自分で「この子は普通の子と同じ。
色々ついてるけど健康なんだから。」と思いたくて
行ったのかな。ママ友も作りたいし。
で、行って思ったのは
初めて酸素チューブと補聴器をつけているタマを見て
興味を持ってくれるお母さんたちに
タマについて一から説明しなければならない面倒さと
同じ年頃の子がチューブや補聴器を触りたがるのを
阻止し続ける努力が必要なのと
ずーっと続けて通っていれば
タマのことをよく知ってくれるかもしれないけれども
酸素ボンベを担いでまめに通う面倒さと
まめに通うにはやはり体調を崩しがちなタマとがいて
気持ちがくたびれました。
外に出たいけれど、お友達も欲しいけれど
おうちで退屈に漫然と暮らしていたほうがましでした。

そんなことを思い出しました。
別に誰も悪くないんだけれど、何か不満で
どうしたらいいのかわからないようなことが
あるんです。

私に必要なのは
もっと社会にコミットする能力(いや、むしろ体力?根性?)なんだろうか。
今は今で不満もありつつ幸せに生きてるんですけど、ね?














2015年4月7日火曜日

教会

私には小学生の頃から通っている教会があって
いまも、実家に帰ればときおり礼拝に顔を出す。
そこには私のことを小学生の頃から知っている人達がいて
そこで洗礼も受けたし、大学に行くきっかけももらったし、
結婚式もあげてもらった。
人生の節目節目でたくさんお世話になったくせに
ずいぶん離れて暮らすような不義理を働いているけど
それでも教会に顔を出すと喜んでくれて、話しかけてくれる。
なにを話せばいいかわからないけど世間話や、近況を話して
何かもっと話したい気持ちのまま
「またきます」とそそくさとお別れする。

この関係を面倒だ、とか逃げたい、と思ったこともあったけど
今は離れて暮らしているから、感謝しかない。
あの場所に行くと、ただの世間話をしていても胸がいっぱいになる。

年に1、2回、教会を訪れる度に、
私は不安になったり勇気づけられたりする。
小学生の私を見守ってくれていた働き盛りの大人たちが
その後リタイアし、高齢者になり、病気とともに生きているのを
目の当たりにして。

それはこれから私に訪れる人生そのものだから。

あるときこの教会で話をする機会をもらって
皆の前で説教壇に立ったことがあった。
タイトルは「神さまに迷惑をかけなさい」
自分でつけたくせにあまりに仰々しいタイトルで、
実際のところなにを話したかよく覚えていない。
目の前には人生の大大大先輩しかいないのだ。
ただ胸が一杯になって途中で泣いてしまった。
時間の経過ってこんなに早かっただろうか。

「私はこの歳になってようやく
迷惑をかけながらしか生きられないとわかった時に
とても楽になりました。」と言う話をするはずが
「どうか迷惑をかけながら生きてください
そして、その姿を私に見せてください。
それは私の人生を豊かにしてくれるから。」
というお願いに変わっていた。

話し終わったあと、わたしがこうなりたいと憧れている人が
そばに来てくれて私の手を握り、まっすぐ目を見て、こう言った。
「89歳ほんとに孤独よ。毎週ここに来て生きながらえているの」

いつもガハハとどんな不幸も病気も笑い飛ばしながら
教会の同じ席に座っている、憧れのその人が、そう言った。
涙が止まらなかったし、こんな言葉をかけてもらえるなんて
私は幸せ者だと思った。











2015年3月3日火曜日

ろう者と聴者の間は限りなく近く限りなく遠い

ろう者の9割は聴者から生まれる。
ろう者の9割はろう者と結婚し
ろう者夫婦の9割に聴児が生まれる。

手話の研修を受けていて、ろうの講師の方からときどき
家族との意思疎通が困難だった。今では家族とは疎遠である。
という話を聞く。
「だからいま手話を学んでいるあなた方は、
自分のこどもたちと話せるよう頑張って。応援しています。」と。
もしかしたらこれは昔の話なのかもしれない。
でも、いつ聞いても、何度聞いても、同じ話でも、涙してしまう。
だって話すご本人の表情がつらそうだから。

通じない、分かり合えないという思いは
家族として過ごしてきても、その関係を疎遠にしてしまう。

そんなのはいやだ!
そんなのはいやだ!
そんなのはいやだ!
そんな風には絶対ならない!

心はそう叫ぶけど
選ぶのは子供。なのであります。

耳が聴こえないことってどういうことなのか
タマが生まれてからしか考えたことがないので
まだよくわからないけれど
こんなに近くに異国があったんだ!
という驚きはずっと続いている。

ろう学校に通っていると
時々ろうの家族(親も子もろう)が羨ましく思える時がある。
そこには言葉の壁はないから。
親は手話のシャワーを浴びせ
こどもはそのシャワーを浴び
それは、やがてシャワーではなくキャッチボールになる。
自然に手話を第一言語として獲得する。

今の私たちは自分も知らなかった言語を
こどもにいくつか教え、自分もどうにかいくつか覚えて
手探りでやり取りを行う。
それはたどたどしく、曖昧で、自信がない。
母語というにははるか遠く
まずは必要最低限の単語からくりかえしくりかえし。

お互いの習得の遅さに
時にはこんなの意味あるのかな
もっと効果的な方法があるんじゃないかな
って思うけどそんな奇跡はおこらない。

ただ、通じ合いたい思いはあって
たどたどしいやり取りも回数を重ねるほどに
通じている、という自信と喜びに変わっていく。
そうか、対話って奇跡だったんだ。

ろう者の9割が
ろう者から生まれた聴児の9割が
この対話っていう奇跡を体験しているなら
ろう者と聴者の距離はどんどん縮まって行く、きっと。